なぜ群馬県に、大和朝廷との関係が類推できる巨大な前方後円墳が多いのでしょうか?
ヒントは、群馬という県名にあります。群馬は文字通り「馬が群れる」という意味。その名の通り、名馬の馬産地であったと推測されます。
上野国(古代群馬の国名)を支配した国造・上毛野国造(かみつけぬのくにのみやつこ)は、大和朝廷に対しても強い発言権を有していたと考えられています。
群馬には「牧」と呼ばれる官営の牧場も設置されていました(利刈牧・沼尾牧・拝志牧・久野牧・市代牧・大塩牧・塩山牧・有馬島牧)。たとえば群馬県安中市松井田町西野牧という牧の付く地名に千駄木岩陰遺跡があるのも偶然ではないでしょう。
藤岡から長野県佐久市にかけての広大なエリアは、古代の大牧場地帯であったとも考えられます。
一帯が甘楽郡と呼ばれるのも、古代には「甘良郡」として『渡来人が多く住んだことから、「から」が変化して「かんら」となったと考えられているのです。
多胡郡の「多胡」も、古代に当地に居住した数多い外国人(渡来人)の意。
和銅4年(711年)3月9日に多胡郡は設置されていますから、8世紀初頭にはすでに渡来人の里だったことがわかります。
一帯は、近世には養蚕・製糸業が盛んになり、富岡に富岡製糸工場(目下、世界遺産登録を目ざしています)も設立されていますが、養蚕・機織りなども渡来人がこの地に伝えた可能性すらささやかれています。
あらら、古墳が富岡製糸工場につながってしまいました。
いやあ、旅って本当に不思議ですねぇ。
七輿山古墳の入口には、ビジターセンターとして「七輿の門」(上の写真)も設置されています。周辺には皇子塚古墳、伊勢塚古墳、白石稲荷山古墳などたくさんの古墳があります。
取材班の合い言葉は、「古墳でこーふん!」
単なる人工の小山ですが、調べると大きなドラマが眠っています。
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